危うく雪の中につんのめるところだった。先ほどまでとは違う刺すような冷え冷えとした空気を肌に感じて、ランツはぶるりと身を震わせた。
 消えたサラをリフィと追いかけて研究所の中を走り回っているうちに、どうもはぐれてしまったらしい。それで弾んだ息を整えようと壁に手をついたまではよかった。
 どうやらそれは壁ではなく扉だったようだ。それも壊れかけた扉だ。手をついて体重をかけた途端みしみしと悲鳴をあげて、外へ向かって壊れた。当然のしかかっていたランツも、外へと放り出される羽目になったわけだ。
 壊れた扉に足を取られながらもなんとか雪につっこむ寸前で、たたらを踏むにとどまった。
「さっみぃ」
 風が体温を奪っていく。出れない出れないとさまよっていた研究所のはずなのに、妙にあっさりと外に出てしまって拍子抜けする。
 問題ははぐれた仲間たちをどうやってここまで案内するか。
「あら、どこの誰かと思えば、騎士サマのお付きじゃない。どうしてこんなところにいるのかしら?」
「ああ゛?」
 さくりと雪を踏みしめる音が聞こえたと思ったら、声をかけられた。振り返って動きを止めた。
「なんで手前ぇがこんなところにいる?」
「ご挨拶ね。好きな時に好きな場所に現れる。私の勝手でしょ?」
「シェラ……だったか? こんなところで暗殺者に会って、警戒するなって方が間違ってんじゃねぇの?」
「ふふふ。それもそうね。それよりなぜあなたは一人なのかしら?」
 白い世界から唐突に現れたシェラは、可愛らしい猫なで声でしかし、どこか豹のような隙のない凶暴さをにじませながらランツに問う。気圧されそうになって、ランツが拳を握った。
「答える義務がどこにある?」
「ないわね。ふふっ。あなたのそういう強気なところ、好きよ」
 濡れた赤に彩られた唇が三日月の形に歪んだ。次の瞬間、目の前にシェラの顔が現れてぎょっとした。暗殺者らしく、音も立てず、気配を悟らせずにやってのけた。
「屈服させたくなる」
 そういってランツの頬を爪の先でなぞる。ぞわぞわと背中が粟立つのを感じて、手で払って飛び退る。
「なにすんだよっ!」
「あら嫌だ。初心なのね」
 くすりと笑うシェラは夜の雰囲気を身にまとっている。それを見てランツは頬をひきつらせた。厭だったからではない。今度、同じことをされれば、乗せられそうな気がしたからだ。
「用がねぇんなら、とっととどっかいけよ」
「つれないのね。でもいいじゃない。少しくらいお話しましょ。せっかくこうして会えたんだから」
「オレには話すことなんてねぇ」
「私にはあるの。ねえ、一人って寂しいと思わない?」
「…………」
 応じる必要はないとランツは黙り込んだ。付き合えば必ず向こうの思うままになる。だが、この場を去ることもできなかった。この女が何を考えているかはわからないが、少なくとも仲間の下に連れて行っていけない。今、建物の中に入ることは、仲間の場所を教えていることと同じだ。
「一人でいるのは寂しい。なにが起きても頼れる人がいないし、助けを求めたところでそれは宙に消えるだけ。例え殺されたとしても、本当に悲しんでくれる人がいるのか確かめるすべもない。ああ、一人って本当に寂しいわね」
 聞いてはいけないと思うのに、言葉が自然に耳に入ってくる。
「でも、どうして一人なのかしら。寂しいってことは充分にわかっているはずなのに。手分けしたから? はぐれたから? それとも、置いて行かれたんじゃないかしら」
 これ以上は聞いていられない。眉間にしわを寄せて、シェラを睨みつけた。
「黙れよ」
「あら、ご立腹? 怒らせたのなら謝るわ」
「黙れ!」
「いやだわ。誰もあなたのことを言っているわけじゃないのよ。一人でいることの理由を考えているだけなの」
「ふざけんな!」
「どうして怒るの? 身に覚えでもあるのかしら?」
 赤い口が楽しそうに嗤う。目の前が赤く染まるかのようだった。感情を逆なでされる不快感で体が震えはじめる。
「青い騎士サマは今や深紅の剣士にご執心。橙色の彼とは兄弟のように仲が良くて気が合う。銀の彼女の想いに気が付いていないのは、騎士サマと剣士サマぐらいなものかしら」
 シェラはランツが黙り込んだのをいいことに、なおも言い募る。目が細められて長いまつげが影を落とし、その表情を妖艶に彩る。
「黒い彼は、いつの間にか騎士サマの隣に収まっていた。そこはあなたの居場所だったのに。ねえ、あなたはどこに居ればいいのかしら?」
「黙れって言ってんだろ!」
 手に触れたのは、シンから借りた短剣だった。柄を素早くつかむと、無我夢中でシェラへと斬りかかる。きぃんと甲高い金属音が鳴り響いた。
「可哀想に。でも、私たちはあなたを必要としているのよ」
「なに言って――」
 胸倉を掴まれたと思った瞬間、女とは思えない力でひかれる。そして唇に柔らかな感触。
「な、なにしやがるっ!!」
 口づけをされたと気がついて、思い切りシェラを突き飛ばして、自分も飛び退いた。よろめきながらもシェラは倒れなかった。それどころかこちらに流し眼を送ってくる余裕すらあった。
「必要としている証明に、私の大事なものをあげただけじゃない。あなたの大事なものも貰っちゃったかもしれないけど」
 手の甲で唇をぬぐえば、赤い紅がついて、これがまぎれもなく現実だと物語っていた。信じたくなくて、何度も唇をぬぐう。
「そんな風にしたら、唇切れちゃうわよ。それにほっぺたに口紅残っているし」
「ふっざけんなぁ!!」
 手にしていた短剣を思いきり投げる。狙いもなにもあったものではないそれは、シェラに向かって飛びはしたが、いともたやすくかわされてしまった。
「ふふふ。そんなに怒らなくてもいいじゃない。いいわ。今日はこれぐらいにしておくわね。でも、覚えていて。私たちはあなたを必要としているの。あなたの母親じゃなくて、あなた自身をね」
「誰がお前ら何かと」
「居場所が必要なら、あげるわよ。私の良い人なんかどうかしら?」
「いい加減にしろ!」
「あら、ごめんなさい。それじゃあ、またね」
 片眼をつむりながら、わざとらしくちゅっと音を立てて、自分の唇に押し当てた手を放す。そして、現れた時と同じようにあっという間に白い世界へと消えてしまった。
「ちくしょう」
 みじめだった。シェラの言葉に何一つ反論できなかった自分も、重い足を引きずって歩く姿も、雪に埋もれた短剣を拾っているのも、ここに一人でいる自分も、何もかもがみじめに思えた。
 シンは前に進む。それはこの旅の前を思えば明らかだった。目標を持たずただ鍛練を続けていたシンとはもう違う。どんどん輝きを増して、人を引き付けるようになった。シェラの言う通り、シンの隣に自分の居場所はない。
 シンばかり進んでいく。変われない自分を置いて。ランツはその場にうずくまった。
「……ちくしょう」
 歯を食いしばりながらこぼれた声は、真っ白な雪の中に溶けて消えた。
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