ちりぃん。
冷たい白い壁に反響した音がころころと転がる。
ああ、あの方が呼んでいる。今すぐにでもいかなければ。
薄暗い廊下は、まるで自分の心を現しているかのようだ。気が付けば、ため息を一つ落としていた。
犬と鳥 〜或る騎士と姫の物語〜
少しでも早く、その上で走ることなく目的地へと向かう。幸いなことに真っ赤なじゅうたんが、足音を消してくれるので、それに気を配る必要はない。
目的の場所へとたどり着くと、こつこつと目の前の豪勢な扉を叩いた。
「お呼びですか?」
「ええ。髪を整えてちょうだい。今夜は晩餐会に出るの」
部屋へと入れば、美しい女性がイスに座ってこちらを見ている。気高き我らが姫が、たった一人で待ちわびていた。
この碧の瞳に捕らわれてから、どれほどの時がたったのだろう。出逢ったころと変わらない、美しくも繊細な瞳だった。
この方なら身につける宝石などなくとも、碧の瞳がその代わりになるだろう、と柄にもないことを考えていた。
本当に豪華な宝石と無縁のお人であったなら。そうであったなら、どんなに良かっただろうか。
ほんの少しの間だけ目を閉じて、気持ちを切り替えた。もう慣れたものだ。日の差さない薄暗い廊下を思い浮かべればいい。白い壁に触れればつるりとして冷たく、赤いじゅうたんが足の裏に柔らかな感触を伝える。そこが、自分が立つべき居場所だ。間違えてはいけない。
「差し出がましいようですが、そういったことでしたら、侍女にお申し付けになった方が」
「いいから早くやりなさい」
「……かしこまりました」
鏡の前に腰かけた姫の髪に触れる。
冴え冴えとした金の髪は、流れるように肩へと滑っている。
自分の武骨な指が触れてしまえば、たちまち汚れてしまうのではないか。あまりに完璧で、そんなことを考えれば考えるほど、今の状況が滑稽に思えた。
女性の髪を結ぶことができるほど、自分の指は器用にはできていない。できることは、剣を握ることだけ。当然、髪を掬うそばからこぼれてしまう。こぼれた髪を掬えば、気がそぞろになった場所から残りの髪がこぼれおちる。
ふと視線を感じて鏡へと目をやれば、慣れない作業に悪戦苦闘をする自分が映っていた。やはり、滑稽だ。
そして、不機嫌そうな美しい顔も映っていた。
「へたね」
「やはり自分では不恰好になってしまいます。せっかくお美しいのに」
「いいの。どうせ、つまらない晩餐会なんだから」
口元が不満そうにゆがめられている。良くも悪くも正直なお人だ。言葉に嘘はなく、心底そう思っているのだろう。だからこそ、所詮、成り上がりの騎士でしかない自分に髪を整えさせようなどと思ったのだろうが。
「晩餐会には、婚約者様もいらっしゃるのでは?」
「だからつまらないの。あんな男、権力にしか興味がないんだから」
姫の表情がどんどん透明になって行く。
どんな感情をもうつさない、陶磁器の人形。
それが二日後に婿を迎える女性の、政治の犠牲になる女性の顔だった。
「そのようなことをおっしゃらずとも」
自分の言葉がどこか空虚なのはわかっていた。だから鏡に映る姫の視線を受けて後ろめたくなり、続きを飲み込んでしまった。自分の心の中にある感情をすべて見透かされているような気がした。
「お父様も人を見る目がないわ。あんな男をわたくしの婚約者に選ぶなんて」
父親をなじる声は小さく、消え入りそうで、仕方ないというあきらめの色があった。透明さからこぼれおちた感情。そこだけ色がついていて、際立っていた。
「もういいわ」
悪戦苦闘する自分にあきれたのか、姫が立ちあがるそぶりを見せた。
慌てて、髪から手を放す。
金色のやわらかな糸が、かすかな音をたてて、流れおちていった。金色の軌跡は流れおちて、自分に美しい仮面を見せる。
手を伸ばせば届きそうな距離に、姫の顔があった。
「ねぇ」
姫が笑う。
あまりの美しさに、鏡を通した表情との違いに、思考が飛んでいく。白く変わる。
白い壁も赤いじゅうたんも消えて、残るはただ、彼女の姿だけ。
「キスして」
戯れるような言葉だった。そして、今の自分には残酷な言葉として響く。
彼女の笑顔が自分の全てを麻痺させる。全てを捨ててしまえたら、どれほど楽になれるだろうか。
目を閉じた。まぶたの裏にうつるのは、白い壁、赤いじゅうたん。
そして自分は、膝を折って、姫の左手をとった。
「そんな挨拶じゃくて」
姫の言葉を無視して、手の甲に口を近づける。
あと少しで甲に口が触れるというところで、突然、手を引きぬかれてしまった。
「違う!」
見上げれば、姫の瞳が怒りに燃えていた。癇癪を起して、肩で息をしている。
「違う、違う、違う! そうじゃない!」
姫が望んでいることがなんなのかぐらい、鈍い自分にもわかる。そして、応えるわけにはいかないことも。
怒りで頬を紅潮させた姫をこれ以上見ていられなくて、目をそらした。
姫はそれを否定ととったらしい。
「出て行って! 行きなさい!」
できるだけ丁寧に部屋を後にしたつもりだ。感覚が麻痺していて、うまくできたのかどうかわからない。
日の当らない廊下まで戻ってくると、壁に背中を預けて、ずるずると座り込んだ。
廊下の冷たい空気が、自分の高ぶった感情を諌めてくれる。
あの人は、かごの鳥。
自分は、鳥に気に入られた、みすぼらしい野良犬にすぎない。
鳥かごが他人に渡されるのを、指をくわえてみていなければならない。
鳥かごを壊すことも、鳥にあこがれることも許されてはいない。
ましてや、愛おしいと思うことなど、それを相手にも願うことなど。
決して、許されないのだ。
二日後、自分は今までで最も美しい花嫁を見た。犬らしく、地を這いずり回りながら。零れてしまった涙は、人知れず地面に吸い込まれていった。